まえがき
見送ったばかりの20世紀を40年ほど振り返ってみると、建物高さは30mで制限されていた。現在では高さ300m級の建物もあり、今や50mや100mは当たり前の時代となっている。
そこで建築施工における、揚重機の歴史について数年前から調べて来た。先輩諸氏に当時の苦労話などエピソードを聞き、自身の記憶と整合し徐々に内容が充実した。
1.タワークレーンの発達
1-1 第一世代 塔型クレーン ‥‥デリックからの世代交替‥‥
昭和36~37年頃までの鉄骨組み立てにはガイデリックや三脚デリックが主流であった。ガイデリックでは仮設構台や建物の構造部分を利用して迫り上げて建物高さに対応していた。三脚デリックでは組み立てた鉄骨上に走行レールを敷設し、移動台車で前進しながら更に鉄骨の組み立てを行なう工法等が主力であった。
建築工事用タワークレーンとしては、昭和35年に小川製作所にて開発した国産第1号機OT-521型(右写真)が大林組の新橋虎ノ門電気ビル工事で使用された。その構造は8尺×8尺の鉄塔上に旋回フレーム・Aフレーム型マスト・ジブを有し、それはタワークレーンと言うよりはデリックに近いクレーンであった。
鉄塔は、それほど強度がなくガイデリックの様に鉄塔上部から控えのトラワイヤーを張り、ターンバックルで緊張してタワーを支えていた。
クライミングには、「ガイダー」と称する迫り上げ装置をマスト足元の外側に組み立てて、マストの最下部からクレーン全体をそっくり持ち上げる方式で、現在の鉄塔組立クレーンのクライミング方式と全く同じである。
タワークレーン採用1号機の設置現場は以下のとおり。
型式 | 設置年月 | 設置場所 |
---|---|---|
小川製国産第1号機 | 昭和35年6月 | 虎ノ門電気ビル |
小川製バックフレーム型1号機 ※ | 昭和37年12月 | 東京駅八重洲 |
浦賀ドック製第1号機 | 昭和37年頃 | 大阪神ビル |
住友機械製第1号機 | 昭和38年頃 | 武田薬品十三 |
OT-5030型第1号機 ※ | 昭和38年3月 | 三菱仲14号館 |
OT-2035型第1号機 ※ | 昭和38年4月 | 代々木体育館 |
OT-3030型第1号機 ※ | 昭和38年6月 | 阿佐ヶ谷駅 |
OT-3035型第1号機 ※ | 昭和39年2月 | 福岡毎日新聞社 |
OT-4030型第1号機 ※ | 昭和39年10月 | 神戸大和銀行 |
※印は小川製作所50年史の製品年表を参考にした。
これを見ると先人達がいかにその時代の先端技術を積極的に取り入れ、タワークレーンの発展に力を注いだかが想像される。
昭和37年から39年当時は揚重機が旧来のデリック類からタワークレーンに移る過渡期で、本格的タワークレーン誕生の直前であり揚重機の世代交代が始まった時期である。 昭和36年に勤務した建築現場の揚重機は、三脚デリックとガイデリックを中心にして、その他に当時最先端のトラッククレーンP&H355BTC(クレーン本体部分が米国P&H社製からの輸入品、走行台車部分は三菱ふそう社製の国産)を使用していた。
浦賀重工のタワークレーンは造船所のクレーンを建築用タワークレーンとして使用したものである。タワー部分は本設鉄骨を1スパン先行して組み立てその鉄骨上に設置していた。(クライミングは出来ない)
この他、当時使われていた揚重機には、鉄ブームと呼ばれる機械がある。この機械はコンクリートエレベータータワーの途中にデリックジブを取付けて、複胴ウインチで巻上・起伏操作を行う。旋回は「ヒゲトラ」と称するジブ先端に取付けたマニラロープを人力で引いて旋回させていた。後に鉄ブーム用電動旋回装置も開発され、自動旋回操作が可能となったが時代は既に本格的タワークレーンの時代に入っており余り使用される事なく、中型・小型のタワークレーンにその役目を取って変わられて行った。
1-2 第二世代 クライミング式タワークレーン
それまで旋回体の前面にあったジブ根元ピンの位置を、旋回中心より後方に移動させることによりマストの真上が開放され、最上段マストの上に次のマストを継ぎ足すことが可能となった。これがセルフクライミング機構の重要なポイントである。
クライミングの動力は、タワークレーン自身の巻上ウインチを使い、クライミング用ワイヤロープと滑車でクライミングを行った。現在も同様のシステムは現存して使われている。このタワークレーンには、埠頭や造船所のクレーンでは一般的に採用されている水平引き込み機構が新たに組み込まれた。起伏操作をしてもつり荷高さがほぼ一定に保たれるため、鉄骨組み立て工事などでは非常に有効で、運転操作も容易となり鳶工にも大変評判が良いタワークレーンとなったのである。
昭和39年、丸の内帝国劇場ではOT5030を4台使用し、タワークレーンマストの地上から高さ7~8m位の位置にそれぞれ円形リング(半割りで)を取付けて、門型クレーンの片方の脚をその円形リングに預け、もう片方の脚は地上のレール上を走行させた円形走行門型クレーンを製作した。この門型クレーンは地下掘削・土砂搬出に使用し、先人達のその応用力に感服するところである。
昭和38年頃、名古屋市内で使用したKTK3040呉造船所製はクライミングの時は巻上ワイヤをフックブロックより抜き取り、クライミングブロックに仕込んで兼用している。クライミングカンヌキの長さが 2.5mほどもあり、大変重くてカンヌキの差込み作業に大変難渋した。
昭和42~43年頃、大阪万国博太陽の塔でKTK180を採用した。既に保有していたKTK3040でのクライミングカンヌキ操作の経験を、KTK180Wの発注に際し、クライミングカンヌキの作業性の向上を改良する様に提案した。この他に、当時のタワークレーンのジブには点検梯子・先端踊場など付いていない。後年しばらくしてから点検梯子・先端踊場は標準仕様で取付けられた。
昭和40年、OT型のクライミング方向はマスト4面に対し、その内1面のみ可能としていた。工事途中で施工計画が変更された時にクライミング方向を変更する事ができなかった。以後クライミングブロックを4方向に取付けられるように改造した。
昭和42年、工事用電源配線を盛替たときに相を間違えて結線したため、モータが逆転しリミットスイッチが作動せずジブがスットパーに当っても起し運転され、ジブストッパ付近で根元ジブを曲げる事故が発生した。現在では逆相リレー等を取り付けて防止している。しかし、この種の事故は今でも良く聞く話である。
昭和40年に大阪桜橋では、屋上に突き出たタワークレーンのマストが地下から屋上まで床を貫いていては仕上げ工事に支障を来たすので、中間のマストを取り除く「マストの中抜き」をする盛替用中間台座が考案された。盛替用中間台座を屋上に設置して、マストの中抜きを行い、屋上から盛替用中間台座とマスト2段に盛替て、屋上までのコンクリート打設し工事の進捗に多いに貢献した。
昭和43年、越原鉄工所がコンクリートエレベータータワーを利用したタワークレーン(ロイヤルクレーン)を製作した。マスト内部にタワークレーンを組み付けてクライミングする構造で、マスト最上部でマストを中心に前方にジブを後方にカウンタジブを水仙の葉のように開く構造である。現在の鉄塔建設用クレーンの前身に当たるのではないだろうか。
昭和46年当時ジブを赤白の航空色に塗るのが始まった。勤務先であった現場のタワークレーンをどうしても現地で塗り替えることになり、正月休み中にジブを航空色に塗り替えた。その後は航空色に塗るのが一般的になり現在に至っている。
1-3 巻上ワイヤロープ
タワークレーンは巻上揚程が高くなるので、OT型、KTK120型では巻上ワイヤロープに非自転性ワイヤロープ(商品名:ヘルクレスロープ)を使用していた。ヘルクレスロープは外周がZ撚り、内芯ストランドがS撚りで構成されており、ワイヤロープの撚り戻し力は外周のZ撚りと内芯のS撚りとで相殺され自転しない構造である。
しかし、OT型の水平引き込み装置では巻上ワイヤロープをバックフレームにある水平引き込み装置内で8条掛けにしてワイヤロープを伸縮させており、ヘルクレスロープの撚りが短い距離(最小距離2m位)で凝縮され、内芯ストランドがプラスキンクを発生し、外周ストランドの間から飛び出してしまうトラブルが多発した。
OT型でのヘルクレスロープのキンクが問題となり、その対策として東京製綱のモノロープ(商品名、当時開発途上であった)を採用したらキンクのトラブルは無くなり、フックブロックの回転も発生しないで非常に良い結果が得られた。
旧型のJCC200ではOT型と同様の水平引き込みを採用しているが、巻上ワイヤロープは普通のワイヤロープを使用している。フックフロックの回転防止にはSより・Zよりワイヤロープで対応しており、2本のワイヤロープが一定の間隔で独立しているためより戻し力が相殺され、フックブロックの回転を防止している。現在の大型タワークレーンでは殆どがこの方式である。
1-4 電源電圧
昭和47年頃スリップリングを引き起し作業中に挟まれる事故が発生した。電源キャブタイヤケーブルが太く重いため、捌くのに手間取っているところに引き起し・引き戻し作業中の玉掛けワイヤロープが切断してキャブタイヤケーブルを捌き中に挟まれる事故であった。
事故対策として電源電圧を200Vから400Vに変更して、電源キャブタイヤケーブルを細くすることで重量を軽減ししてからは、その取り扱いが大変楽になった。